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2010-11-12 (Fri) [長年日記]

_ 未来の人とロボットの関係は誰がデザインするのか?

11ヶ月のご無沙汰である.『ロボットという思想:脳と知能の謎に挑む』と『ロボットは涙を流すか:映画と現実の狭間*1を読んだ.

人工物による「知の創造」に関しては、多くの批判もあります。「生物と人工物は異なるので、人間のような知能を持つ人工物はできるわけがない」「機械の知能は生物の知能を見本とするべきではない」といった声があるのも事実です。

特に後者の引き合いに出されるのが、冒頭のジャンボジェット機の飛行と鳥の飛翔の比較です。「飛翔の工学的実現であるジェット機は鳥の形態と非常に異なり、そのことが飛行機としての最適な設計となった。羽のはばたきを真似しても失敗するだけである。同様に、人工の知能を実現しようとするときに、生物を真似るのでは、同じ間違いを繰り返すことになる」という批判があります。しかし、本当にそうなのでしょうか。

そして,実際の飛行機は表層的にみれば鳥のはばたきのような機構は備えていないが,翼の構造や操作の機構といった本質的な点は鳥の飛翔と同じであるから,生物の模倣による知能も,見かけの模倣ではなく本質を見極めて余計な要素を削ぎ落としながら構築することが重要(参考文献)としている.

そうなると問題はどこで余計な要素を削ぎ落とす方向にシフトするか,そしてどの要素を残すかの方略が大事になってくる.もっと言ってしまえば,そもそも生物の積極的な模倣という作業を続けることさえ疑問に思える場面もあるだろう.応用先が見えてしまえば新幹線のパンタグラフの風切り羽根のように,ヒントを得てしまえば積極的に模倣して削ぎ落とすという作業をしなくても済むかも知れない(いや,風切り羽根も本当はこのプロセスを経ているかも知れないが,可能性としての話である).結局,どのようなアプローチをとるにせよ,着眼点のよさの問題にならないだろうか.

また,人間と協調するタスクを目指す場合は,人間の作業との相互適応や共進化のような形でロボットの機能が洗練される可能性もある.ロボットだけに目を向けず,環境との相互作用に着目する方向でも注目すると思わぬヒントが得られるかも知れない.

わたしはある自動車電子機器メーカーを訪問し、見学コースで自動化の最先端技術のデモを紹介してもらったことがあります。固定化したパターンの仕事をする産業ロボットではなく、一台のロボットが故障しても、まわりの別のロボットがそれを助け合うという知的なシステムでした。このシステムは、学会賞まで受賞するなど高い評価を受けました。しかし、実際には使われていません。なぜかというと、一台のロボットが壊れたらまわりのロボットが協調してそれを助け合うというシステムを成り立たせるには、かなり複雑なプログラムが必要で、そもそもの故障率が高くなってしまっていたのです。結局、人がどこかで監視しなければいけないというので、使われていないということでした。

ということは,人型ロボットが協調作業という未来像は夢のまた夢の話に思えてくる.そもそも故障などにロバストな人型ロボット1体をつくるのさえ困難なのが現状なのではないだろうか.

やや横道にそれるが,

世界で初めて、科学と工学を一つの頭脳のなかで開花させたのは、紛れもなくダ・ヴィンチだ。

ダ・ヴィンチの活躍した15–16世紀には,そもそも科学も工学も独立した概念として存在していないはず.狭義のscienceが自然科学を指す意味で使われるようになったのは19世紀中頃だし,今日でいう自然科学の応用という位置づけの工学が成り立ったのは18世紀頃である.そもそもこのような表現をしなくても,「深く鋭い洞察を人工物の設計に反映させた」とすればよかったのではないだろうか.

ほかにも 日本のからくり人形はロボットの先駆け という記述があるが,たまたま現代から遡れるロボットらしきものの原形がからくり人形に過ぎないわけで,ほかにも当時類似のものが存在していたが淘汰されてしまったかも知れないし,当時のからくり人形の社会的な位置づけと現代のヒューマノイドロボットの社会的な位置づけは当然異なるはず.こうした考察を科学史・技術史的観点からも丁寧に深めることは,将来ロボットが社会に受容されるための手がかりになるのではと考えている.歴史にせよ文化にせよ,素朴な考察は避けた方が得るものが大きいと信じている.

おそらく日常から少し深いところへ掘り下げた何らかの考えが種になって、そこへSF作家のような人々の想像力が出逢ってブーストされ、それを研究者が見て、こうすれば実現できるかもしれないといった着想を得る――そういったことが起こっているのだと思う。

現実はすでにSFを追い越してしまっているのではないだろうか.映画の世界にしても,たとえば『マイノリティ・レポート』に出てくるインタフェースのデザインにMITの研究者が駆り出されることのように,研究の先端を参考にSFがつくられるという流れができているように思える.さらに,技術の実用化のヒントが生み出されるのはSFからだけではない.むしろ現実を考えると,先端技術に興味のあるエンドユーザがヒントを見いだすことも多いように思う.

余談だがこの記述の直後に人間と対話的にタスクを遂行する人工物をロボットと呼ぶなら,ケータイもロボットだろうという話が出てくるが,そんな素朴な話をするならMedia Equationの話をして欲しかった.ケータイほど作り込まれたモノ相手でなくても,自動的に動作するモノを自覚なしに,あたかも人間と接するかのように人は扱ってしまう.そしてそれは技術の精通度合を問わないから,機械に強い人間であっても同様の行動を自覚なしに行っている場面だってある.そのような関係をうまくデザインすることを目標とするのか,またその関係が破綻した場合のユーザの行動についてどう考えるか,そういったことを考えることが今後の研究や商品開発のヒントになるはずだ.

私が驚いたのは,映画の中で,何気なく誰かが主人公のブルース・ウィリスに「サロゲートに似てきたね」と言うシーンである.もはやその人のアイデンティティを決定するのは,本人ではなく,サロゲートに移っていることを示す決定的なシーンだ.

そして何より私が驚いたのは(中略)「いやあ先生,最近,ますますジェミノイドに似てきましたね」

アイデンティティが移るという表現は大袈裟ではないかと引っかかる.「本人と瓜二つの人工物が目の前に現れる」という新奇性の影響があったり,ジェミノイドをみるうちに無自覚に自分がジェミノイドを模倣している場面が出てきている可能性もあったりするかも知れない.本当にアイデンティティが移っていたら,ジェミノイドの方に本来本人に頼むべき仕事をどんどん頼むような事態が出てこないかと思う.映画の中なら出てきてもおかしくないのだが(実はまだ『サロゲート』を観ていないので……),タスクにもよるかも知れないが現実にそこまで起こるようには思えない.まあ,自分のジェミノイドがつくられた人間でなければわからないこともあるのかも知れないが.

*1 Amazon.co.jpのレビューで石黒先生が直接的に役に立たない研究を楽しんでいてうらやましい,という記述があるが,いくら石黒先生でもそんな内容でグラントを書いても研究予算はとれないだろう.本心はどうあれ,少なくとも「ショッピングモールなどの道案内用のロボットを開発し,案内要員の人件費をカットする」などということは書くと思う.どの研究者にとっても置かれた環境はシビアだ.


2010-11-13 (Sat) [長年日記]

_ 死ぬまで心に刻んでおきたい名言

「誰やねん、こいつら」っていう顔で迎えられている時のあのゾクゾク感が、もう大好きやったんですよ。で、だんだん変わってくるんですよ、客が。「何やこいつら、まったく知らんけどおもろいやんけ」って、だんだん客の表情、顔つきが変わってくるあのゾクゾク感がもう大好きやったんですよ。

先日の『プロフェッショナル』の松本人志の回をようやく観た(この日は海外出張先の移動中で,コペンハーゲンにいた)が,この言葉は熱かった.研究者として生き残るため,どんなアウェイな立場に立たされていても,人の表情が変わるまで必死になろう.


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