昨日は大雪の中神保町パークタワー1F柳屋で蕎麦.
日付の変わる瞬間にはあてもなく都内放浪中で,大江戸線の青山一丁目--六本木間の車内にいた.非日本人(しかもその瞬間に「おめでとうございまーす」とテンション高めに道行く乗客に挨拶する)比率がやたら高かった.
麻布十番稲荷→大江戸線で大門→芝増上寺と回っていったん自宅へ.増上寺と,その背後の東京タワーのライトアップの風景が実に東京の正月らしい.写真を撮れば,とも思ったがおそらく誰かがWebにアップするだろう,と他人任せな期待をしておく.
今年は書く文章のS/N比を上げるつもりで,駄文を書かぬよう努力するつもりです.それとすでにネタは揃っているので論文は2本出すのを目標にします.1本照会後査読に回っているのはあるが,それはここではカウントしないことに.それだけ今年は暴れるつもりなので.
確かに,ユーザ個々の意見やスタンスの確立にblogが貢献できる可能性を論じている研究はあまりなさそうだし,相変わらずblog周辺の研究者についても分野を問わずあまり興味がなさそうなトピックになってしまっているのだが,「ひとり学び」のためのblogの可能性の追求には大いに期待している.いろいろ要因はあると思うが,多くの研究者はblog間のつながりの形成に目が行くのが現状になっていて,「blog間のつながり」という研究トピック自体はあってもよいと思うがそのトピックばかりというのはいかがなものかと思っているところなので.
以前向後先生がコメントされていた blogの一番の愛読者は書き手自身
という見方は「ひとり学び」のためのblogについてヒントになるかも知れない.それだけ自分自身に対して,外化された自分の考えのフィードバックがあると思われるので.
あとで読むつもりの関連リソース:SPECIAL ISSUE: The blogosphere in Communications of the ACM.
好かれることが目的ではないサイト.最近そこかしこでNielsen流のユーザビリティの考えに批判の声が上がっているように思う.その批判もいくつかは的を射ている.私なりの批判をすれば,以前書いたことといくらか重複するが要するに「ユーザが人工物側に適応する」という観点がNielsen流のユーザビリティの考えにはないか,弱いのではないかということだ.
だが,今後のこの業界の発展のためにあえてNielsen流擁護の立場に立つと,「Nielsen流はもう古い」という考えにこの業界が流されてしまう危険性もあると私は危惧している.Nielsen流の考え方というのは,いわば「いかにマイナス要素をなくすか,マイナスをゼロにするか」を追求する品質保証のための方法論なのである.いくら「いかにプラス要素を付け加えるか,ゼロをプラスにするか」を追求したところで,「プラス要素」は「マイナス要素」に打ち消されるばかりか「マイナス要素」が「プラス要素」を上回る可能性もある.Nielsen流のユーザビリティ論は確かに扱う対象が狭いし,一般ユーザ,そしてインタフェースに関わる人々にとっても面白くないものかも知れない.だが,インタフェースにおける「マイナスをゼロにする」アプローチにおいて,Nielsenの考えは生かされるべきだ.
私の研究は「ユーザが人工物側に適応する」「ゼロをプラスにする」ための方法論の模索の側にある.だからこそ,「マイナスをゼロにする」方法論を追求しているユーザビリティエンジニアや研究者の方々には改めて敬意を示したい.また,そのような方法論と組み合わせて初めて「ゼロをプラスにする」アプローチがうまくはたらくのだということをこのご時世ゆえに強く主張したいのである.
以前,「インタフェースの研究者たるもの一般ユーザと同じ視線に立たねばダメだ,だからWindows上でWordで論文を書いたり,Outlookでメールを書いたりするのだ」という発言を聞いたことがある.もちろん,たまにはWindows上で作業してみて使いにくさを実感することは大事なのだが,普段からユーザと同じ視線というのはいかがなものか.私の知る範囲なのでサンプルの偏りはご容赦願いたいが,インタフェースに関して面白い仕事をしていると思える方々は,お話をうかがったりメールのヘッダを見たりして判断するに大概Windows以外のOSを普段使っている.私も最近は研究の関係上WindowsとFreeBSDを半々で使うような形になっているが,いつでもOSの乗り換えがきくようにメーラはEmacs上でWanderlust,WebブラウザはFirefox,文書作成はLaTeX,表計算はOpenOffice.org Calcを使うなどOS非依存な環境で仕事するようにしている.もっとも,Microsoft Agentを今後使うのはよそうと思っているためこれでWindowsを使い続ける理由もなくなったので,そろそろMacに乗り換えようと思っているところだが.
与太話はこれくらいにして,要するに何が言いたいのかというと「ユーザはユーザ,インタフェースのデザイナはデザイナ」という視点の違いがあるからこそユーザはデザイナに対して「ユーザ独自の行動」を見せ続けられるし,またデザイナからすれば「ユーザ独自の行動」を一歩引いた視点から眺めてよりよいインタフェースの提案をする可能性が残るのである.これが同じ視点になってしまったら,ユーザの気づかない盲点をデザイナは見つけられない危険がある.極端な例を挙げれば,「自分を単純作業の機械にする」文化を追認することにもなりかねない.問題は「ユーザ=デザイナ」になっているRubyのようなケースだが,それとて「ユーザはユーザ,デザイナはデザイナ」という視点の切り替えがMatzさんの中になければRubyは単なる他の言語の物真似レベルに終わってしまっただろう.視点の違いがあるから,ユーザとデザイナが互いが学習できるのだ.「ユーザと違う視点に立つ」ことと「ユーザの考えを無視する」ことはイコールではないのだが,これを混同している人々が多いように思える.「ユーザと同じ視点に立つ」という言葉の響きは美しいのだが,何を意図したものかについてはよく吟味する必要がある.
大昔に作成したLaTeXクラスファイルのページにTeX Wikiからリンクされていた.LaTeXのページについては共有してもよさそうな情報についてはTeX Wikiに全面的に移してしまって,残りの個人的な情報はここに書いていこうと考えている.その方が何かとすっきりするので.
以前思いつきで書いた「使える感情表現に制約を加えた場面でのユーザ間コミュニケーション」について考え直してみる.小松さんのパラ言語情報による意味の獲得のような話につながるのかも知れない.ただ,「チャネルとして対称的なコミュニケーションになった時にどうなるか」「ノンバーバル表現だけ,というレベルで制約を加えた場合にどうなるか」などという点でまだ不明瞭な点が残されているので,そこはさらに探索的な実験なりサーベイなりして考える必要がある.こういった研究を現在の自分の立場でやれるかどうかはわからないが.
やる気のある方は是非.できれば私も混ぜて下さい.
今日のミーティングネタとしてメモ.確かにエージェントの身振りなどの非言語情報は言語情報と比べると注意を惹きやすい,つまりユーザの覚醒度(arousal)を引き上げるという意味では自明であろう.だからといって非言語情報は感情価(valence),ここで言えばユーザのエージェントからの情報に対する印象の良し悪しに影響しないかというと必ずしもそうではあるまい.私の以前の研究の例を挙げれば,エージェントの視線は発話の対象を明示できるが,ユーザに視線が向いた場合,エージェントの発話の対象がユーザであるとはっきりわかる代わりにエージェントからの情報に対してある種の「押しつけがましさ」が生まれることが考えられる.つまり,エージェントからの情報の良し悪しに影響を与えている可能性があるわけだ.その意味でエージェントからの非言語情報がユーザに与える影響は慎重に調べる必要がある.
また来やがった.根本的な対策を考えねば.
いったん makerss.rb のキャッシュを消します.後で古いエントリをRSS内に復活させる予定です.[2005-01-08T00:01:32+09:00 追記] とりあえず今年に入ってからのものは復活させました.
ちなみに最近お借りしているサーバの関係でアクセスログが見れないためスパムを打ってきやがった連中のリモートホストがわからない状況です.
コメントありがとうございます.CAVE(参考)のような大掛かりな没入型ディスプレイがなくても,画面に投影されている空間の中に自分の身体が没入しているように感じることはあると思います.認知的資源の限界云々以前に,そこまで考えていたらまずゲームとして楽しめないですし.
ところで,関連して前から気になることがひとつ.次のエージェント*1の比較を.
![]() | ![]() |
右のエージェントは「どこ」にいるのだろうか? 最初に右側だけ見て,見えている部分だけの生き物と捉えようと思えばできなくはないかも知れないが,やはり形からして下半身があると考えてもおかしくはないだろう.このような表現は没入型ディスプレイでは物理的に不可能で,表示部分の下端が存在するディスプレイならではの表現になる*2.
ユーザが知覚する「対エージェント距離」については,Media Equationの第3章にあるようにエージェントの画面上のサイズで決まる面もあるが,このようにユーザの想像の中で補完される空間にエージェントの身体があるかどうかという面もかなり影響があるように思える.すでに研究があるかも知れないが.
*1 實松をIllustrator上でトレースしたものを使わせていただいております.顔が三角っぽくなってしまったり鈴が正面からみると正円になってしまったりしているのはこちらの不手際ゆえお詫びいたします.
*2 もちろんディスプレイに下端が存在すれば何でもよいわけではないだろう.たとえば車のドライブのシミュレーションの画面で下半身がディスプレイの下端に隠れていると知覚されるエージェントが表示されたとすると,ユーザが下半身の存在を補完しようと試みた時に「こいつは上半身だけの生き物か? それとも下半身は車体にめり込んでいるのか?」などと無理な想像を強いられると思われる.このケースでは下半身が自然な形で存在しうるフリーな空間がユーザの想像によって補完されることが前提となりそう.まだこれだけでも考察が足りないと思うが.
Windows+IE環境以外ではリンク先に行かないように→ FlashからMS-Agentを制御するテストプログラム.今後エージェント関連アプリケーションはピュアFlash環境で開発を行うつもり.音声読み上げ等も使わないので.
昨日の続き.ユーザは思ったより仮想空間内の「しきり」の存在を敏感に感じとるのではないかと思う.静岡大の竹内さんら*1が以前行った実験でも,画面を横に2分割する縦の線が「しきり」の役割を果たし,画面に現れる2体のエージェントそれぞれに対して各エージェントの居場所のようにユーザに知覚されるようになっていた.つまり,ここではエージェント間における「しきり」が知覚されている可能性が考えられるわけだ.
さて,ここでとりあげたいのはユーザとエージェントの間の「しきり」の存在について.車のドライブシミュレータの例を出すと,オープンカーのドライブシミュレーションがあってもまあおかしくはないがここではひとまず屋根付きの車と仮定しよう.そうすると画面に現れるものは車の外にあるものになるはず.そしてユーザの身体は車の中にある,と仮定するのが当然であろうから画面上に存在するエージェント(たとえば歩道を歩いている人)とユーザとの間には車という「しきり」があると知覚されてもよいはずだ.逆にある仮想空間内の部屋の中で,目の前のエージェントと対話するといった状況がある場合,よほど明示的な「しきり」の存在を持ち出さない限りはあたかも同じ仮想空間にいるように知覚してしまうこともあるだろう.このユーザとエージェントの間の「しきり」の有無も「対エージェント距離」の1要因になりうる.
このように実空間上でのインタラクションのため空間座標系を人間の頭の中で変換せずに済む「対ロボット距離」(『知能の謎』でも少し紹介あり,まだ関連の論文を読んでいないので詳細はわからないが)と違い,「対エージェント距離」はまだわからないことが多い.そもそも仮想空間における空間認知の研究はどれくらい進んでいるのだろう? どの辺の人たちが手をつけているのかすらわからない状況なのだが.
*1 Takeuchi, Y., Watanabe, K, & Katagiri, Y. (2003). Social influence of agent's presence in desktop interaction. HCI International 2003.
一ツ橋のマシンにリモートでログインできなかった.なぜかと思い夕方研究室に出勤してみるとマシンの電源プラグがテーブルタップから抜けていた.自分の足か椅子で電源のコードを知らない間に引っ張ってしまい,テーブルタップがキャビネットに引っかかっていたので抜けてしまったのだろうか.また,このテーブルタップ,刺さっている電源の一斉オン/オフができるスイッチまで付いているのでうかつに足なり椅子なりをぶつけるとこれまたマシンの電源が落ちる.今回は再起動だけで済んだものの抜本的な対策を考えねば.
某仕事で結構ひさびさにプログラミング仕事,というより文献読みや物書きにウェイトを置き過ぎた.向こう2ヶ月はひたすら手を動かすつもり.
ということでメールアドレスを画像にする仕事をした.数個程度だったらIllustratorでも使えばよいのだが,今回は約50名分のメールアドレスの画像化なのでそんなちまちました仕事はやっていられない.最初LaTeX→EPS→PPM→GIFという富豪プログラミングを地で行く変換方法をとっていたのだが,これでは出力があまりきれいにならないのであきらめる.別の方法を,と思いGDライブラリで生成する方法はどうだろうと思いつく.するとRuby/GDのサンプルプログラムにTrueTypeフォントを使ってテキストを出力するプログラムがあったので,これを使い回して終了.正味3時間程度の仕事であった.なにせGDを触るのは今日が初めてなので,半分ほど理解しないままの使い回しだったのだが.
リクエストにお答えしてソースを示しておきます.あまり理解しないままRuby/GDのサンプルプログラムを使い回したものなので責任は持てません.
#!/usr/bin/env ruby
=begin
使い方: generate_mailto_img.rb <mail_address_list_file>
mail_address_list_fileとして
メールアドレスを1行につき1個並べただけのテキストファイルを用意
=end
require 'GD'
# 適当なTrueTypeフォントへのパスを
Fontpath = "/usr/X11R6/lib/X11/fonts/hogehoge/hogehoge.ttf"
Margin = 4
Fontsize = 10.0
def maxx(brect)
[[brect[0],brect[2]].max, [brect[4],brect[6]].max].max
end
def maxy(brect)
[[brect[1],brect[3]].max, [brect[5],brect[7]].max].max
end
def minx(brect)
[[brect[0],brect[2]].min, [brect[4],brect[6]].min].min
end
def miny(brect)
[[brect[1],brect[3]].min, [brect[5],brect[7]].min].min
end
open(ARGV[0]) do |fin|
while (line = fin.gets)
if (line != nil)
line.chomp!
# 同一ユーザ名のメールアドレスがないと仮定して
# ユーザ名をファイル名にする
/@/ =~ line; filename = $`
# 文字列全体の画像サイズをあらかじめとっておく
(err, brect) = GD::Image.stringTTF(0, Fontpath, Fontsize, 0, 0, 0, line)
if err
puts err
exit 1
end
x = maxx(brect) - minx(brect) + Margin * 2
y = maxy(brect) - miny(brect) + Margin * 2
im = GD::Image.new(x,y)
x = 0 - minx(brect) + Margin
y = 0 - miny(brect) + Margin
white = im.colorResolve(255, 255, 255)
blue = im.colorResolve( 0, 0, 255)
(err, brect) = im.stringTTF(blue, Fontpath, Fontsize, 0, x, y, line)
if err
puts err
exit 1
end
# ファイルに出力
mail_img = open("img/#{filename}.png", "wb")
im.png(mail_img)
im.destroy
mail_img.close
end
end
end
そういうわけでしばらく気を抜かずにやらねば.早いうちに来月のシンポジウムのスライドまで用意してしまいたい.下手したら今週か来週あたり英語で研究紹介をする機会もあるはずなので.
opus 2 ―音―楽― 音に関する作品展を文房堂ギャラリーへ見に行く.今年に入ってから行こうとずっと思っていたのだが,今日が初日だったことに行ってから気がつく.なかなか興味深いものだった.また行きたい.
上記リンク先の告知ページの主である浅野達彦氏の立体作品はつい自作したくなってしまう代物だった.浅野氏の音楽以外の仕事をメインに見に行くのは初めてだ.
職業柄,思わぬところから思わぬ生き物(堅苦しく言えば社会的人工物)が現れる作品が気になる.たとえば得体の知れない生き物のアニメーションがあったのだが,いきなり「地面」と思しきところから生えてくるような形で身体が現れる.これに対して少なくとも私は面白いとは思えど違和感は感じない.もうひとつ気になるものがあったが,これは言葉で説明すると身も蓋もないので控えておく.いずれにせよ,社会的人工物の現れ方にはいろいろなバリエーションがありうるし,少なくとも今日見たものは私の目から見て意外性はあっても不自然さはなかったと思う.
さてエージェントの場合はどうだろう.たとえばいきなりカメラがスイッチするように切り替わる形で身体を現す例がありうる.だがこれは普通,状況の文脈をぶつ切りにしやすいのでエージェントの現れ方としては違和感は生まれにくい代わりに面白みもあまりないだろう.Microsoft Agentの場合は大概画面の奥の「無限遠点」から現われたり(Officeアシスタントのイルカなどがこのタイプ),突然テレポートするような形で現われたり(魔法使いのMerlinなどがこれ)などの例があるがだいたいこの2つのパターンに収束しそうな気がする.画面の中の「地面」を仮定してそこから生えてくる前述のような現われ方をするエージェントは見たことがないが,これはそもそも画面の中の「地面」の仮定そのものが往々にして不自然になりやすいからかも知れないし,まだそのようなエージェントに私がたまたまお目にかかったことがないだけなのかも知れない.いずれにせよ,身体の現われ方という一面で見ればある意味エージェントのアピアランスなり社会的属性なりに「得体の知れなさ」を加えることで,ある意味不自然なエージェントの身体の現われ方を自然にしていると考えられるが,特に人間に似過ぎたアピアランスのエージェントになるとどうも違和感が拭い去れなくなる印象が個人的には強い.
ここで有効活用しようと思うのが「画面の端」である.以前の私のMS Agentを用いた実験でも画面の中で突然現れるという現われ方の不自然さが気になったので,いったん画面の外で登場させた上で画面の上端から現われ下端に向けて動くような形にした.要は画面を「地面」のように見て,上斜め30度くらいから固定のビデオカメラで俯瞰するようなイメージである.このような表現手法が妥当なのかどうかについては作った私からみても大いに疑問だが,時間的に切羽詰った状況だったので(実質エージェントの行動部分は半日で作らざるを得なかった)最低限不自然に見えなさそうなエージェントの行動設計にするのが精一杯だった.いずれにせよ,「画面の端」の表現は興味深い.まだ思うところがあるので次のセクションにて.
もうひとつの手法は「物陰」から登場という方法だが,Microsoft Agentだとすでに画面上にあるオブジェクトの「物陰」から現われるような表現ができない.このような表現をするとなればFlashなどで作るほかないだろう.そもそも「陰」になる画面上のオブジェクトが表現の一貫性からみて妥当なものかどうか,という問題も出てきそう.
ひとまず,仮想空間内でエージェントを使って表現する側としての「画面の端」の意味を考えてみたいと思う.いくつか軸になりそうなものを挙げると次のようなものだろうか:
ユーザの視点の位置
ユーザの視線方向
ユーザと画面との物理的距離
(上に関連して)画面を投射しているデバイス
据置型ディスプレイ(TVやPCのディスプレイなど)
ヘッドマウントディスプレイ
没入型ディスプレイ
仮想空間内における映像表現としての「重力」の存在の有無
(上に関連して)その「重力」とユーザの視線方向がなす角
「端」は仮想空間内の視野の限界なのか障害物の存在があるのか
ほかにもありそう.具体例は挙げるときりがないので,機会をみて小出しにする.
この手の議論はどこでなされているのだろう.絵画なり映画なりの表現手法などにあるのだろうか? 実空間の空間認知研究にもヒントがあるかも知れないが,実世界で表現が困難な仮想空間上の空間認知となるとそれだけでまだわからないことが大量にありそう.
某共同研究のネタが浮かんできた.まだ確信はない.もはやゲームではなくなってきた.ひとまずコンテンツ作りが大変そう.それと何より研究の位置づけがまだあやふやなままなので,これも早く何とかせねば.
私も参加してきたペルソナとシナリオを用いたソフトウェア開発──実践編.
ペルソナ法の重要文献であるAbout Face 2.0: The Essentials of Interaction Designが一ツ橋に届く.読み込まねば.
via 切込隊長BLOG(ブログ)←陸這記.私も映画は年に1本すら観ないし(最後に映画館に行ったのはかれこれ4年前),レンタルビデオ屋にもかれこれ10年近く足を踏み入れたことすらない.それくらい映画はビデオでも観ない.演劇も観ない.小説も読まない.私の場合は映画にしても小説にしてもストーリーを追うという作業が極端に苦手なだけなので,とにかくよほど話の筋がわかっているか,批評という視点でも与えられない限り,映画も小説も鑑賞するのが苦痛でならない.ほかの同業者の皆様にさえ怒られることを覚悟して言えば,論文を読む方がよほど楽なのである.いくら研究者とはいえ,自分でもそんな人間はやっぱり病んでいると思う.私はエージェントの行動のユーザへの影響を追求する立場ということを考えればクリエータ側に近いのかも知れないが,立ち位置がリンク先の該当者の方々とはかなり異なりそうなので同類なのかどうかは何とも言えない.違うと言われそうだが.
映画なり舞台なりの批評なり表現手法なりについては最近職業柄興味が出てきた,というより知らないとまずいと思い始めたので,これらを知ることについてはやぶさかでない.それと,音楽のプロモーションビデオやらお笑いの舞台やらの数分程度の映像作品ならば興味がある.要するに作品の尺の問題でもあるわけだが,これがスポーツ観戦となると4時間以上ダラダラ延長戦が続く野球でも無制限ラウンドで膠着状態が続く格闘技でも長くても別に苦痛にならない.この差が自分でもいまひとつわからない.
Amazonのレビューはなかなか当てにできない.中には商品購入の参考になる情報もそれなりにあるのだが,なにせ「このレビューは参考になりましたか?」の投票結果があるとしても有象無象のレビュアーのレビューからノイズをフィルタするのが難しい.Amazon.co.jpの場合は『奇跡の詩人』の件や『千と千尋の神隠し』のDVDの件などもあってますます字面以上の情報の吟味ばかりが強いられる状況にある.星の数も評価基準がバラバラなので信用ならない.特に「原書は素晴らしいが翻訳がどうしようもない」というような日本語の本では,原書の内容でよい評価がされている場合と翻訳が駄目すぎる点で悪い評価がされている場合とが一緒くたなので,こんなバラバラな評価の平均をとるとさらにわけがわからなくなる.私はAmazonのレビューが信用しにくい原因のひとつがレビューのフォーマットと星による評価というインタフェースの中にあるのではないか,と以前から考えていた.
この手のレビューというのは商品を褒める評価をしても,評価に内容が伴わないケースが多くなりがちのような気がする.本のレビューの場合なら,本の内容にただ頷くだけ,というような形である.逆に商品を批判すると今度は揚げ足取りになるケースも多いだろう.商品のいい点と悪い点を1つの文章にまとめるのはなかなか大変だし,内容云々以前に「素人が何を偉そうに」という印象を持たれてもおかしくない(自分はどうなんだ?).こうした問題はレビュアーの質というよりも,1人のレビュアーが1つの文章にまとめるというレビューのフォーマットが原因になっているように思える.古典的な解決策はフランクリンの功罪表をそのままインタフェースに応用してみる方法だろうか.
星については代替案を出すのが難しい.価格.comのPCや家電製品などのように評価基準がいくつかはっきりしていそうなものがあればそれらを多面的に評価すれば何とかなりそうだが,本はこの基準が本のジャンルや著者などに強く依存してばらつくだろうからあまり賢明な策とは言いがたい.直観的な商品の質の判断が難しくなるというリスクを背負うが,いっそのこと星はなくてもよいかも知れない.
メールアドレス画像の大量生成スクリプトについて思った以上に反響がある.これだけではOCRなどにかけられたらすぐ読み取られそうなのでもっと細かい芸を使った方がよいかも知れない.単発でよければHandmailもある.
ちなみに画像化については請負先の意向がある.私自身の判断で作るならHTMLエンティティ生成の手法とJavaScriptの組み合わせで念には念を入れるつもり.
ここ最近エージェント関連の説明を書いていて思ったが,やはりグラフィカルに説明しないとまわりくどくて仕方がない.タブレットでもあれば少しは解決しそうだと思ったが安直だろうか.
洗い物中に包丁を持とうと思ったら手が滑って床に落ちたのですが,あと一瞬遅かったら左大腿部を貫通するところでした.よけられたので助かったのですが.
以後気をつけましょう,ではインタフェース研究者失格なので,何か策を考えねば.
PukiWikiのページを直接PDFに変換(via カネゴンさんの2005-01-16).サーバ側でSmartDoc→LaTeX→DVI→PDFに変換をするようにしているようだ.
OpenOffice.org 1.1.4が出た.当面複数OS環境が続くので手放せない.来月のシンポジウムのプレゼンは今後のことを考えてFlash MX Professional 2004のプレゼン機能を使うことも考えているが,本番まであと3週間を切っている状況で時間があるかどうか.
SVGなファイルを見る機会がようやく回ってきたのでWindowsのIE用Adobe SVG Viewerのプラグインで見る.Adobeのものだったらグラバで画面を「つかんで」動かせて当たり前だろうかと思ったらさにあらず.しばらくいじってようやく Ctrl+左クリック でクリックした点を中心にズームイン,Ctrl+Shift+左クリック でクリックした点を中心にズームアウトするのだとわかった.使いにくいったらありゃしない.ほかにいいビューアがあればいいんだが探しても見つからず.
教科書と重複、開始遅れ再試験… センター試験ミス続出.この件についてはまとめサイトまでできている.
最近は改善されたのかも知れないが,私が受験生だった頃には「国語I」と「国語I・II」は同じ問題冊子の中にあり,この2つを識別するには問題冊子中の各科目の最初のページでちゃんとチェックしないとわからない形になっていたと思う.ただでさえ出題形式の似通った2科目であるため,年に数百人--数千人は「国語I・II」で受験したはずが「国語I」の問題で回答,もしくはその逆をやらかして涙をのんだ可能性は否定できない.そもそもなぜこのような科目の分け方をしたのか理解に苦しむ(来年からは統合されるが).こんな疑問を持ち出したらきりがないと思うが.
ちなみに去年の失態について.
そういえばここは結構大学の先生方もよく見ておられると思います.改めて試験監督された皆様,お疲れ様でした.
via 観察と記述.もちろんこのような現象がみられることは重要.しかし,ひとまず各ユーザのメディア(ゲームであればどういったゲームなのかまで)に対する接触歴・接触頻度がどの程度か,またどの程度「重症の」ユーザが存在するか,そして何より仮想空間と現実空間の区別がつきにくくなるプロセスがどのように進むのかについて押さえておく必要があるだろう.それらの症状に対する対処は当然ながら考える必要があるものの,要するにエッジケースであって過度な心配をするほどのものではないというのが妥当な見方なのかも知れない.
関連して,first person shooter.用語として覚えておこう.
所用あってすずかけ台(すずかけ台は「外」なのか,と言われると微妙だが).明日M1の構想発表がある(今日行ってから知った)のでまた出向く.明後日も外回りである.
国際シンポジウム「New perspectives in affective science」にProf. Justine Cassellの講演がある29日のみ行ってくる予定.日帰り,というより2泊1日で京都.今日移動手段を押さえる.
すずかけ台でM1の構想発表.荒削りだが面白い研究をする人間がこの時期は何人か必ず出てくると毎年思う(まだ3年目だが).
仕切りの人々はおとなしくなった.量的にはこれくらいが妥当だろう.我々の代が働き過ぎだったのである.質的(司会進行など)にはこれから.私も大したことができたわけではないが.
今日の2日目のみ聴講.エージェント関連研究についてわずかな時間ながら議論の機会があった.感謝.特にノンバーバルコミュニケーションの周辺はまだ手がつけられていない問題が結構あることに改めて気づかされる.惜しむらくはピンスポット照明がなかったせいで今日初対面の講演者の方の顔がわからなかったこと.前に座ればよかったのかも知れないが.
以前気になっていた仮想空間への心理的没入感について関連しそうなリソース.もっと関連しそうな論文が一ツ橋にあるようなので明日入手しよう.
最近また気になるトピックがいくつか出てきたのでひたすら文献読み漁り中.
ひとまず今週のミーティングネタに絡めるつもりで『マンガ学:マンガによるマンガのためのマンガ理論』で気になったことがひとつあったのであとでまとめる.
Firefox用のRSSリーダの拡張であるSageのデフォルトのフォントサイズ設定では文字が小さ過ぎるし,Tapestryによる漫画の表示の問題があるので1コラムでアイテムを並べたいためスタイルシートをいじってみる.いちいち細かい設定する余裕がないので,元のスタイルを叩き台にフォントサイズだけいじる.以下手順:
まずSageのインストールページからxpiファイルをいただく."click here to install"のリンクを右クリックし,[Save Link As...]を選んでダウンロードする.xpiファイルの実体はzipファイルなので,unzipして中に出てくる sage.jar を取り出す.
さらにjarファイルも実体はzipファイルなのでsage.jarをunzipすると,content/res/sage.css というファイルがあるので,これを取り出していじる.
いじったファイルは適当な場所に置き,Firefoxのメニューから[Tools]→[Extensions]で拡張のリストを開いてSageのオプション設定の画面を開いてFeed RenderingのUse custom style sheetにチェックしてファイルのパスを指定する.
私がいじった場合のdiffはこんな感じ:
% diff -u sage.css.orig sage.css
--- sage.css.orig Sat Sep 11 02:57:00 2004
+++ sage.css Mon Jan 24 16:09:32 2005
@@ -11,6 +11,7 @@
margin: 0px;
color: #222;
font-family: verdana;
+ font-size: medium;
}
a:link { text-decoration: none; color: #436976; font-weight: bold; }
@@ -28,21 +29,21 @@
}
#rss-title {
- font-size: large;
+ font-size: larger;
line-height: 1;
margin: 0px;
padding: 0px;
}
#rss-desc {
- font-size: small;
+ font-size: inherit;
margin: 0px;
padding: 5px 0px 0px 20px;
}
div.item {
border: 1px solid #8cacbb;
- width: 47%;
+ width: 96%;
min-width: 14em;
margin: 0px 0px 8px 2%;
padding: 0px;
@@ -51,7 +52,7 @@
h2.item-title {
background-color: #dee7ec;
- font-size: x-small;
+ font-size: inherit;
font-weight: normal;
line-height: 1.1;
margin: 0px;
@@ -64,13 +65,13 @@
div.item-desc {
min-height: 6em;
- font-size: x-small;
+ font-size: inherit;
margin: 0px;
padding: 8px 10px;
}
div.item-pubDate {
- font-size: x-small;
+ font-size: smaller;
margin: 0px;
padding: 8px 10px;
width: 80%;
非常に仰々しいタイトルをつけたが,言いたいことは『マンガ学:マンガによるマンガのためのマンガ理論』の言及を踏まえて次のようにまとめられる:
抽象的なグラフィックは受け手の自由な解釈を許し,理解に対する認知的資源を比較的消費せずに済む
具体的なグラフィックは受け手の解釈に制約を与え,理解に対する認知的資源を多く必要とする
それゆえ,特に社会的人工物の設計においてグラフィックの抽象度のコントロールは重要な要素になりうる
何をもってグラフィックの「抽象度」を定義するのかについては難しいが,ひとまずGoldstoneらの研究*1を踏まえ「グラフィックの受け手側にとって,グラフィック表現と表現対象との本質的類似点グラフィックの表現対象がもつ本質へ注意が向く度合い」と考えることにする.つまり,抽象度の高いグラフィック表現は表現対象との類似度は高くなく,受け手としては表層的な類似点の検出を容易にするが,逆に抽象度の低いグラフィックは本質的な類似点の検出を誘発する.(ご指摘ありがとうございました.下の例で説明します.)漫画の世界ではどうやら「抽象度」に対する意識は強いようである*2し,グラフィック表現における重要なパラメータとして捉えることは妥当であろう.ただ,本質的な類似点の検出が認知的な付加を高めるかどうかまではまだ私の現在の知識では確証がない.
さて本題.まずMcCloudの漫画の抽象度に関する指摘をとりあげる:
たとえば人の顔を描くとすると,:-)を右90度回転したような顔の画のように抽象度が高いほど「一般的な人」と読み手に捉えられ,逆にある人の写真を忠実に模写したような画のように抽象度が低いほど「ある特定の人」と読み手に捉えられる.
抽象度の高いキャラクターの画は,読み手に対してキャラクターへの感情移入を誘発する.逆に抽象度の低いキャラクターの画は,読み手に対して他者としての印象を与える.
抽象度の高い低い(すいません逆でした.お詫びして訂正します)画は,その画を「漫画の世界のもの」として読み手が想像する上で画の表現対象と「漫画の世界」のギャップが大きく,そのギャップを埋めるため読み手の認知的資源を必要とする.
1. は自明だろう.1. についてちゃんと説明すると,抽象度の低いキャラクターは「ある特定の人」への表層的類似度が高いため,読み手は「ある特定の人」のイメージに引きずられそのキャラクターの内面なり本質なりまで考えが及びにくい.逆に,抽象度が比較的高いキャラクターは表層的な類似度が低いため読み手に「一般の人」と捉えられ,読み手がキャラクターの全体像を頭の中で補完する上でキャラクターの内面なり本質なりまで考えが及びやすい,と考えられる.文脈により事情が変わりそうだが.2. は抽象度の高いキャラクターは読み手のマインドリーディングを誘発する,と言い換えられるかも知れないが「なぜ」と言われると説明が難しい.1. の考察からキャラクターの内面や本質に考えが及ぶ際にマインドリーディングというプロセスを踏むのでは,と考えられるがまだ仮説レベル.3. についても直観的には納得がいくが説明しにくい.また,抽象度というものはあくまでグラフィック表現の認知における1パラメータに過ぎないという点を忘れてはまずいだろう.
*1 Goldstone, R. L. and Medin, D. L. and Gentner, D. (1991) Relational similarity and the nonindependence of features in similarity judgments. Cognitive Psychology, Vol. 23, 222--262.
*2 McCloudの本でも重要なトピックになっているし,私が大昔に読んだ藤子不二雄が描いた漫画の手引きのような本でも「ギャグ(抽象度高)」と「リアル(抽象度低)」で分類していたように思う.もちろん,前者はF,後者はAの画が分類の中心になっていたことは想像に難くない.
ペルソナ法の解説については以下を参照:
ペルソナ法におけるペルソナについては,できるだけ実際の人間の写真を使うことが推奨される.つまり,抽象度の低いグラフィックの使用がすすめられる.集団によるインタフェース設計の問題は,ターゲットユーザの像において設計者側に想像の余地が入り,ターゲットユーザが「ゴムのユーザ」と化してしまう点にある.この想像の余地の中に,集団による意思決定によくある多数派への同調や権威への服従といった問題が生まれてくるというわけだ.そこで前述の議論を踏まえると,ペルソナのアピアランスの抽象度を下げることで,設計者のターゲットユーザの理解において思考の制約を加えることができ,集団のアウトプットとしてターゲットユーザの誤解をせずに済むというのがペルソナ法の意図だろう.もちろん,制約の加え方に設計者のひとりよがりな考えが入るようであれば意味がないわけだが,そこはペルソナ法とはまた別の視点からカバーする必要がある.たとえば,ペルソナの特徴づけでは必ず三角ロジックに則った形で「なぜそのような特徴が必要か」と各設計者が主張できるようにする,各自が特徴を個々人でまず考えてリストアップし,あとで電子ブレーンストーミング的な形で共有する,など.
もうひとつ,集団による意思決定という観点からペルソナ法を見ていて気になる点があるのだが,後日.
via blomemo←tclog Sample Page.blogでないWeb日記サイトなどでもコメントやTrackBackが付けられるそうな.これを付ければ静的生成なWeb日記でも「ブログであること」条件を満たせるかも.ちなみにtclogの作者はいつも迅速な情報をいただいているrei harakami onlineの管理人でもある.
スケジュール的には一日も早く実装の土台を固めたいのだが,ままならない.理論的な迷いもまだあるのだが.こういう時に限って外出が続くので.
Goldstoneの論文の件ですが,その鈴木先生の発表の論文経由で知って,社会的人工物のアピアランスの影響を論じる上で強い根拠になりうると思って読んでいます.いわゆる「不気味の谷」などもこれで説明がつきますし.かなり歯ごたえがありますが.
Storytelling evolves on the web: case study: EXOCOG and the future of storytelling (via Captology Notebook).これは読まねば.
論点整理.いま考えているのは仮想空間におけるユーザの視点の問題なのである.ただ,「視点」とひとことで括っているが実際は空間認知的な意味合いでの「視点」とマインドリーディング的な意味合いでの「視点」とがごっちゃになってしまっている.まずこの2つの軸があることを確認し,次はこの2つの間に依存関係があるかどうか,そしてその依存関係はどのような形で存在しうるのかについて当たりをつけておく必要がある.
ちなみに「ステンザー効果」のスペルはSteinzor effect.
ドットを取ってdeliciousと読めばよいのか.いずれにせよアカウントを作った.最近あまり使っていないが暇をみてMyClipでクリップしたものを一式インポートしておこう.Firefox用Extensionも入れておく(解説).
del.icio.usと同じ要領で文献情報の共有ができると非常にありがたい気がする.論文はDOIのあるものはそれをもとにURIにできるし,書籍も出版社のサイトなりAmazonなりをブックマークすればよい.それでも足りなければ自分のblogなりWikiなりにメモを残す,という方法ならまあ現実的だが.
森政弘.1970.不気味の谷.Energy,Vol. 7,No. 4,pp. 33--35.
森政弘.2003.ロボット博士の創造への扉 第27回 不気味の谷:人型ロボットデザインへの注意.ロボコンマガジン,No. 28,pp. 49--51.
人工物,たとえばロボットを人間に似せるようにデザインしていくと,人間への類似度があるところまで高まったあたりから急にロボットへの親和感が失せていく現象がみられる,と主張し,この親和感が失せた地点のことを「不気味の谷」と名付けた.例を挙げればQRIOのような見た目で明らかにロボットとわかる(=人間に似せていない)ロボットはそれなりに親和感が高いのだが,アピアランスを人工皮膚などを用いてリアルな人間に似せた「動くリアルなマネキン人形」のようなロボットは逆に不気味さを誘発する,ということを主張している.また,動かないロボットと動くロボットとでは動くロボットの方が親和感,不気味さに対してより強い反応を誘発する.感情研究の用語を使えば,覚醒度(arousal)が動かないロボットより動くロボットの方が大きい,と解釈すればよいだろう.
実際に例として挙げられているものを以下に列挙する.実際はグラフで示されているのだが,さすがにグラフそのままをいきなり転載するのはまずいと思われるので.素のグラフについてはロボットの動作と見かけの問題の解説に出ているので,これと照らし合わせて参照されたい.またそこまでせずとも議論の叩き台は十分できるであろう.なお,類似度は「健康体の人間を基準とした類似の度合」を,親和感は「健康体の人間を100%とした場合の親しみやすさの度合」とそれぞれ素朴に定義されていると考えられる.
ぬいぐるみ
能面(やせ男),死人(これが「谷底」),装飾義手
一般人形,能面(翁)
工業用ロボット
玩具ロボット,人型ロボット
動く死人(やはりこれが「谷底」),電動義手
文楽人形,病人
著者は義手の例からも読み取れる通りヒトの指の動きのモデリングが専門のひとつで,いかにロボットをヒトそのものに近づけるかというスタンスで論じているし,最終目標を実現可能かどうかはともかくとして完璧に健康体のヒトに見えるロボットを作る,というところに置いていると考えられる.人型ロボットの社会的影響について1970年代からこのような考察を始めている点については素晴らしいのだが,いかんせん個人的な価値判断をもとに義手や人形からロボットに至るまで言及した素朴過ぎる議論ゆえこれだけでは有用な知見を見出すことは難しい.いわゆる「チューリング・テスト」の議論にも当てはまるが,「この人工物は人らしいか?」という問いから議論を始めても得られるものは少ない.「人はこの人工物のどこに人らしさを見出すのか?」という問いを最初に立て,ボトムアップに「人工物の人らしさ」に迫る必要がある.
また,「動かない人工物」と「動く人工物」とで親和度の評価を分けているのだが,たとえば「動く人工物」の評価と静止している「動く人工物」の評価はどう違うのか.「動かない人工物」,たとえばぬいぐるみに対する過去のエピソードのいろいろやら語りかけやら,といったものは「動く人工物」の評価とどう違うのか.そう考えるとこの分類のしかたには疑問が残る.たとえば「ファーストコンタクト」の評価と「インタラクション」の評価で分類してみるとどうだろうか.「ファーストコンタクト」にはアピアランスやら音声を利用するなら音声などの評価を含めばよく,「インタラクション」は文字通り人と人工物の社会的インタラクションから得られる評価とみればよい.この分類の妥当性について論じる必要があるが,問題がまだ複雑で整理し切れていないので差し当たり詳細についてはここへ書くのを控えておく.要するに「ファーストコンタクト」については「人工物としての人らしさ」と「人間としての人らしさ」が別々に認知されるであろうという点について,「インタラクション」については「人工物との社会的インタラクションを通じてその人工物の『人らしさ』の定義がダイナミックに変化する」という点について書きたいわけだが.
@article{mori:uncannyvalley70,
author = "森 政弘",
yomi = "Masahiro Mori",
title = "不気味の谷",
journal = "Energy",
volume = 7,
number = 4,
pages = "33--35",
year = 1970}
@article{mori:uncannyvalley03,
author = "森 政弘",
yomi = "Masahiro Mori",
title = "ロボット博士の創造への扉 第27回 不気味の谷:人型ロボットデザインへの注意",
journal = "ロボコンマガジン",
volume = 28,
volumememo = "本当はNo. 28.だがBibTeXで扱う場合はvolumeフィールド必須,
numberフィールドがオプションになっているので便宜上こうした.
うまい扱い方のわかる方,ご教示願います.",
pages = "49--51",
year = 2003}
以前の研究会の続編に参加してきた.
今回は時間がなかったので,ペルソナがすでにできあがった状態からシナリオの作成を行う,という形でグループワークを行った.しかしシナリオがなかなか浮かばない.どうしても具体化されたインタフェースが先に思い浮かぶ.あとでわかったが,そういう場合はいったんメタな視点から抽象的にみるという策をとってからシナリオに「翻訳」する,という形をとるとうまくいきそう.
社会的人工物の人らしさの帰属という観点から考えると,ペルソナ/シナリオ法の問題点は次の2つに収束しそう:
写真や様々な属性によって具体的に決められたペルソナに対して,人は強く感情移入できるのか?
逆に,抽象化されたペルソナに対して,人はペルソナに対する想像の制約が効くのだろうか?
もちろん,最初は具体的なデータに基づいてペルソナを具体的に決めるところから入らないと「ゴムのユーザ」を生み出しかねない点にはくれぐれも注意が必要である.いずれにせよ,結局のところ,片方の方略に限界を感じたらもう片方の見方から考え直す,そのもう片方の見方にも限界を感じたらもとに戻ればよいわけで,この2つの疑問の往復のプロセスを通して「はさみうち」的にユーザ像,そして目標とするインタフェースを捉えるのがペルソナ/シナリオ法の肝なのだろう.そしてこのプロセスは1人でこなすのが大変骨の折れる仕事なのでどうしてもグループでこなす必要が出てくるし,またグループでこなす場合にもこのプロセス自体がメンバーに目標の共有を促すので,メンバーが生成する意見の「適者生存」の保証の1つになりうる.
そういうわけで日帰りで京大に来ている.最大の目当てはJustine Cassellの講演.ポスター発表などで分野の近い方々が何人かいそうなので,コンタクトしよう.詳細はのちほど.
via 中澤先生のメモ.数ヶ月周期でプレゼンテーションの問題はどこかでとりあげられている気がする.ちなみに今週末のシンポジウムでの発表は会場に用意されたPCを使い,PowerPointかAcrobatを用いて発表するようにとのことだったが(こういう用途のマシンにこそOOoを入れるべきだと思うのだが)今回はOOo Impressでスライドを作ってしまった上にPDFへの変換がうまくいかないことと,以前の実験のプログラムが富豪的仕様なため私のPC以外では動かすのが困難なこともあるので私のPCが使えるように交渉した.
昨年暮れに開催された公開シンポジウム 「小学校での英語教育は必要ない --- 英語教育のあるべき姿を考える ---」でもプロジェクタを使わない発表がいくつかあったが,手元の紙資料を見ながら,という形で自分の喋りを生かす形の発表の方が内容的にも説得力があったし,何より面白かった.中にはただひたすら喋り倒すだけの発表者もいたが,一種の話芸として楽しむならともかくとしてどういった根拠に基づいて話をしているのだろう,という疑問に駆られて内容が頭に入らなかった.これがプロジェクタを使った発表になると個々人のプレゼンテーションの能力に関係なく,すべてのプレゼンテーションが内容的には無難に見えてしまうわけだ.
プレゼンテーションに関する教育については思うところがなくはないが,後日.
Firefoxの場合,thead で囲まれた部分はテーブルがページをまたぐ場合改ページ後最初にまた出力される.こんな便利な機能があったとは.試していないが tfoot も同じような挙動をするのだろうか.これから機会があるかどうかわからないが,質問紙作成には便利そう.
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_ Shuhey [ssvさん,あけましておめでとう! 活性化委員M研のMです. この日記リンク貼らせてもらいますね. 私は今スイスの認..]