現在国際会議のカメラレディ用に画面キャプチャの撮り直し中.
当面の日程:
来週早々:某学会誌投稿(いつまで寝かせるつもりだ早く出さねば)
8/1:某学会全国大会にてポスター発表
今後やっておくこと:
現ボスから提案のあった2chのミクロな解析*1,というよりまず解析対象の板の選定から
D1の癖にろくにやってない論文や国際会議のサーベイ,ここ数年の認知科学,HCI,エージェント,ロボットなものを特に重点的に
サイドバーのToDoにもあとで追加するが,差し当たり本文に入れておく.それにしても去年と比べると間違いなく論文を読む量が激減している.まずい.
書きたいネタは大量にあるが時間がない.仕事だ仕事.
ここのところ多忙で,また抑うつ気味な気分を紛らわすため睡眠時間をわざと削っているがそろそろ限界がきそう.
今日は喋り過ぎでした.申し訳ありません.もっとスマートに生きたいと思います.
情報検索でひとつネタが浮かんだので,暇を見て実行に移してみようと思う.作ってみた方が説得力があると思うので.
何度もここでも書いたし,多くの方々が指摘していることでもあるが,少なくとも日本のWebにおける「日記的コンテンツ」(個人が日常的にWebに発信する情報,あえてWeb日記とかblogとかと呼ばないことにする)の問題点として
似たり寄ったりな内容しか発信されていないことが多い
ただ他のサイトの情報を紹介するのみで,独自のコンテンツを発信できていない
といったものがあるはず.個人的にこれらの原因は多数派への同調にあると考えているし,これは集団力学の観点からして別に日本に限らず起こりうる現象であるとも捉えている(実際はどうなのかは事情を知らないのでわからないが).「情報流通,情報流通」と声を大にしても,個人が受け取る情報が膨大になるばかりでそれらの情報を咀嚼し切れずにこのような問題が頻発するようでは無意味どころか害にさえなるように思える.
さて,昨日の研究会で気になったのはこれらの問題が情報検索のprecision(精度,適合率)/recall(再現率)の議論に落とし込まれていて,「まあ昔からある問題だし」として片付けられている点がひとつ.検索の結果を踏まえて情報を発信する,というプロセスには情報を発信するユーザの意思決定も絡むのだが,この点がないがしろにされている気がしてならない.「お気楽なコンテンツなら関係ない」という指摘もあったが,Webでは情報の受発信においていつその情報について利害関係のある人間が関わるかわからないわけで,もっとこの問題に慎重になるべきではないか.「Webサイト=人」と情報源を捉えるなら「検索にヒットした文書=人」という見方もできるわけで,なおさら重大な問題であろう.
もうひとつ.有益な情報を多く持つ人間の特定にSNSが使えないか,という提案もあった.SNSの現状をみるとこのようなアプローチへの応用には課題が多過ぎる.現状のSNSのようなシステムだとそのような人間がネットワークの中で単に情報が搾取されて摩耗するだけ,という状況が目に見えてSNSに関わろうとも思わないだろうというのが切込隊長氏のホリプロが自由を語っている,キヌガサ(KINUGASA)とかいうSNSからの招待状を激しく拒否から見えてくる.SNSそのものの意義を否定するつもりはないが,応用を考えると難しい.有益な情報を多く持つ人間を生かすアプローチとしてはむしろはてなのような人力検索に報酬というシステムの方が現状ではうまく機能するように思える……というかこの話は提案を出した右隣の方に直接しなさいって.
山下先生のお話も興味深かったが込み入った話になりそうなので後日.追記:ひとまず同じ研究に関する個人的捕捉先の関連リンク.津村さんの科学に「将来予測」を期待する→三中さんの反応その1→「なぜウェブログを書き続けるのか」モデル→反応その2.他分野の方々からみた議論で興味深い.この辺の議論も併せてのちほど.
「メニューは右」問題も新たな展開があるしコメントしたいが今日はやめておく.闇黒日記(平成十六年七月三日)に関連リンクがまとめられているのでまずはご紹介,と「ただリンク先を紹介するだけのコンテンツが問題」と指摘した直後にこんな話で終わるのもアレだ,ということなので一言反応すれば確かにいわゆるblogは何でもかんでもデフォルトで詰め込み過ぎなところは問題がある(私がtDiaryを選んだ理由のひとつもデフォルトのシンプルさにある)し,インタフェース全体を見渡すとそのようなツール(特に携帯電話やPDA)が多過ぎる気がしてならない.それと差し当たりコメントありがとうございます.詳細はまた今後.
やはり英文は日頃から書き続けないといざという時に困る.それにしてもよくもあんな英語でpoor Englishという評価がレフェリーから出なかったものだ.いま読み返すと結構ひどい文章を書いている.だからといって書き直して改善できるレベルでもないと思うのだが.
仮眠部屋と化している休憩室のソファで仮眠中に今後の小ネタ研究をいろいろ思いつく.実行に移していきたい.
ひとまず原稿の仕上げ.自分の書いた英文の難解さを自分で恨む.これから読まれるであろう皆様には申し訳ないです.
その原稿の著作権に関する同意書を,サインを入れた上で某所にFAXで送らねばならないのだが,国際電話自体が実は初めてだったりするので戸惑う.どうも研究所内からだとNTTコム以外は駄目なようなので,0033-010-国番号-相手の番号で送る.出身大学が出身大学ながら国際電話もかけたことがなければ海外渡航も経験がない.そういえば出身大学が出身大学ゆえ,学部時代は国際電話の勧誘の電話が英語で自宅へかかってきたことも何度かあったが,咄嗟に適当な英語で対応して追い払っていたのだった.
明日こそ某学会論文誌へ投稿せねば.それと前研究室へPCを返さねばならない.頼んだモニタもノートPCもクリエもやたら時間ばかりかかっている.
夕方食事から研究所へ戻る途中,神保町交差点で唯一ネ申の選挙カーに遭遇する.思ったより喋りがゆっくりしていた.注目すべきところが違う気もするが.
来週月曜まで休めそうにない.当面1日1ネタペースで.
明日再び英語プレゼンがあるので準備中.これに関連して参与観察についてぐぐっていたところRの著書でもお馴染みの中澤先生の講義資料のページにたどり着く.社会調査が絡む研究のごく初歩的な心得のサマリーになっていて参考になる.
もともと私個人は学部時代に心理学のコンテクストで社会調査の方法論をかじった程度.質問紙を作り込んでデータを集めてこねくり回して,というレベルでフィールドに出た経験はほとんどない.独学だとこの辺の経験を積もうにもとっかかりがなかなかつかめないので,師匠的な人なり共同作業者なりがいた方がありがたいわけだ.
そんなことを語る暇があったら例の課題でもやりなさいって.今日はここまで.
やはり台本を作り込んで一言一句違わぬつもりの意識で演技ができるまで必死に練習するほかない気がする.近々それだけの練習の価値のある舞台があるわけなので,やらねば.本番3分前までOpenOffice.org Impressとにらめっこしているようではゴールは遠い.まあ学部時代英語のプレゼンだけさぼってきたツケが回ってきたといえばそうかも知れない(代わりにレポートで免除してもらっていたしそのレポートさえすっぽかしていたこともある).まああの時代はプレゼン以前の問題があり過ぎたから仕方がないのだが.いつも目の前の問題にのみ必死なのである.
朝方,ようやく某学会に論文投稿.学会事務局が一ツ橋から歩いて行ける場所にあるのに郵送というのはいかがなものかという気もするが.稼げる業績はいまのうちに稼いでしまいたい.
とにかく仕事が大量に降ってくる.下手したら来週も時間がなさそう.気力がもつまで仕事しよう.
各所への反応を書きたいが時間がなさ過ぎてしばらくこのような締まりのないコンテンツだらけになることを深くお詫びいたします.
ようやく新研究室で注文していたモニタ(EIZO FlexScan L567)とノートPC(Panasonic Let's note CF-W2)が納品.旧研究室の三菱のも悪くはなかったがやはりナナオのモニタは落ち着く.モニタも値切り目的でいつもの御得意様に注文しなかったし,ノートPCもHDD・メモリ大盛なモデルにしたかったのでネット通販にしたのだが,私の場合は会計課(2004年7月5日)だけでなく指導教官の先生や秘書の方などの手まで煩わせてしまった.本当に申し訳ありません.ちゃんと研究で結果を出して借りは返すので.
ちなみに軽いと評判のR3と持ち比べてみたがW2と比較してもたいして重さは変わらなかった.金があるならW2のDVD-Multi対応の方がよいと思う.
せぐ夫君のおかげで資料が印刷できず.原因を探さねば.やはりいくら素直な作りのFreeBSDとはいえ体当たりではしんどい(ついでに言うとvimも).勉強せねば.
深夜,三軒茶屋東京餃子楼で餃子.つがいだらけなのがこれまたしんどかった.
まず以前の話の補足から.発信する情報の独自性の問題は情報の発信者が意識するに越したことはない.意識していただけるのであればもちろんありがたいが,「意識しなくてはならない」というレベルまでは考えていないし,深刻な問題と捉えるならば情報発信を支える私を含めた裏方の人間が責任をもつべきであろう.確かに情報の独自性についてやや態度の偏りが強かった気がするので,ここで弁明しておく.
津村さんやあらきさんの指摘された問題は実は結構重要なのかも知れない.情報のまとめの自動化*1は最近Webの研究でも流行しているのだが,人力による情報のまとめ(アグリゲーション)の価値についてどこまで考慮されているのかについては不安がある.私もセキュリティホールmemoや結城さんのwww.textfile.orgをはじめ,いくつかこの手のまとめのサイトにはお世話になっているし,このような情報のまとめ方にある言語化されていない独自性とでも言えばよいだろうか,そういったものの価値はあると思っている.
*1 研究のコンテクストによってintegrationと呼ばれたりaggregationと呼ばれたりすると思うが(明確な違いがある,というご指摘があれば歓迎します),いずれにせよ同じ問題に直面すると思うので「まとめ」と一言で扱った.
という観点でサービスをする会社は出てこないのだろうか.需要はそれなりにあると思う.肩肘張って個人のオピニオン発信なんぞやる余裕はない,でも備忘録的なコンテンツは書きたいし他人とうまく共有したい,という要求はあるように思える.MyClipは自分でblogを持っているユーザが原則対象なのだが,Webページのクリッピングと一言レベルのコメントの提供と類似ページの提示プラス何かくらいでそこそこなサービスになると思う.クリップした人数の影響はやはり気になるので*1,基本はMyClip同様時系列優先での情報提示の方がよいと思う.それと検索への影響を考えると基本的に個人のページは noindex でよいと思うがクローリングと検索結果の関係はよくわかっていないので問題点があれば指摘を歓迎します.
日記的コンテンツを発信する人々のコミュニティなるものがある程度妥当な形で存在するとするなら,こういったサービスはそのコミュニティへの周辺的参加を促すものにもなりうると思うがどうだろう.要するにこういったちょっとした個人の情報発信を足がかりに独自のオピニオンの発信へモチベーションを高めるユーザも出てくるかも知れない.そういうニーズがどの程度あるかは知らないが……ってだからこういう話はやめよう.
*1 私の場合は同じページをクリップする人数の知れているニュースばかりを追っていることがほとんどなので,あえてここのサイドバーには人数を出している.ほかにどういった方が注目されているのかも気になるので.
カネゴンさん経由.最近の科学社会学の流れのひとつとみなして考えられる問題だと思うが,いかんせんまだまだ若い学問ゆえ方法論が固まっていないし,なかなか自明なレベルの考察から脱することが難しいのが現状かも知れない.私の勉強不足の可能性もあるのでこれも情報のある方は是非(結局他人任せか).
4月中に終わらせるつもりだった某一ツ橋バイトをようやく今日終わらせる.本当はもうひと仕事あったのだがこれはほかの方にお任せしてしまった.その仕事を任せたのも5月の半ばくらいだった気がする.最悪5月下旬には終わらせるべき仕事だったのに遅れ過ぎて本当に申し訳ないです.
本当はこのバイトを未明に終わらせてすずかけ台で用事を済ませたかったが,無理だった.来週にしよう.
tDiary 2.0.0にアップグレード.難なく成功.ほかのツールのメンテナンスもしたいし,そろそろ統一テーマの構想も固まりつつあるので作っていきたい.統一テーマは完成次第すずかけ台のページにも一ツ橋のページ(アカウントは作成済)にも適用予定.
そろそろ一ツ橋のIDカード入れからカードが落ちそうな状況になってきたので買い替えることに.新宿東急ハンズへ.以前渋谷の某所でバイトしていた時にいただいたPLUSのネームタッグ(CT-501PB,商品に直接リンクを張りたかったがうまく張れないURIになっていた)がそこそこ使いやすいし,一ツ橋のIDカードは磁気カードなので耐磁加工(性能はともかくとして)もあってまあこれがいいだろうということで同じものを買っておく.以前の古いカード入れには以前blog勉強会で付けていた六本木アカデミーヒルズの会議室パス(とっくに期限切れ)が貼ってあったりもする.コクヨのするっとパス(いかにもコクヨなネーミングだ)にしようかとも思ったが,ハードケースは脆さが心配(ただでさえものの扱いがぞんざいな私にとっては深刻な問題)なのと一ツ橋のIDカードは表と裏で天地が逆になっていて,磁気部分をケースの開口側に持ってくると首から下げた時にIDカードが逆になってしまうので見送った.まあ買ったとしてもストラップは以前渋谷東急ハンズで作った革製ネーム入りのものに付け替えると思うが.
ほか,今日散財したもの:
ノートPC用ケース@西口ヨドバシ.
名刺用紙@ハンズ.以前は無印良品のデニムスクラップペーパーの名刺用紙を長らく愛用していたが無印良品が名刺用紙の取扱いをやめてしまったようなので,やむなく.また名刺のデザインを考え直さねば.
(とんかつ茶漬け@歌舞伎町すずや.少食な私にとってはひたすら量が多かった.)
ちなみに新研究室のマシンに移行後もキーボードは引き続きMini Keyboard IIIの英語版のまま.HomeとEndの位置が不満なところ以外は打鍵音も静かだし満足している.マウスをPS/2のものから以前実験用に購入したもののWindowsのマウスウェアとFirefoxの相性が悪く,使わずに放置していたLogicoolのUSBマウスに変えたおかげで,FreeBSDでmousedを2つ動かせばMini Keyboardのスティックポインタやホイールも生かせるようになった.どちらか1つでよい気もするし,効率面からしてキーボードで間に合うものはキーボードで対処した方がよかろう.ただスティックポインタでマウスジェスチャをやろうと思うと結構大変.
そういえば紀伊国屋書店(本店の方)で母校の入学案内を入手.私の知っている学生が顔を出すのは今年が最後になりそうな気がする.
この前研究室の面々と英語論文の書き方について少し議論があった.こぞって国際会議に投稿しようとしていたのでそうなったわけだが.
私が学部時代に言われてきたことはいたってシンプルで,何も英語論文に限ってのルールではなかったと思う.まあなぜシンプルかといえば学部時代の英語の授業はことごとくすっぽかしていたからに過ぎないのだが.なので補足のできる方はツッコミをどうぞ.基本的にこの辺に尽きると思う:
まず何より書きたいテーマに基づくサーベイを.図書館で文献を引っ繰り返すなりぐうぐる様に頼るなり.
そのサーベイに基づいて自分の主張を洗練させる.自分の言いたいことばかりが前に出過ぎてサーベイの内容と乖離しないように,またサーベイの内容に引きずられ過ぎて主張のオリジナリティが失われることのないように.
議論の組み立ては,いわゆる「三角ロジック」(学部の授業の用語ではassertion-evidence-assumption,横山雅彦氏の用語ではclaim-data-warrant)を意識するように.主張,主張を立証する証拠,証拠の分析の3点セットを原則としてパラグラフを構成する.
基本は「三角ロジック」に基づく主張-本論(デフォルトは3部構成)-結論.本論は主張を立証するものになるように,情報を過不足なく盛り込むように.アウトラインの段階でひたすら推敲を重ねる.アブストラクトが必要な文章であれば,この時点で書いてしまった方がいいかも知れない.
アウトラインに基づいて文章を組み立てる.基本はやはり「三角ロジック」に基づく主張-本論(デフォルトは3センテンス)-結論.接続詞を使ったり形容詞の使い方に注意したりしながらどういったトーンで議論が進んでいるのかをはっきりさせる.ここでも推敲を重ねる.
文法やら語法やら構文やら,を気にするのはひとまずここまで書けてから.スペルチェックは一番最後.
ほか細かいルールがいろいろあったと思うが再生できない.私もいつもこのルールに100%従っているわけではない,というかはっきり言ってこれは理想論だ.特にデスマーチな状況ではアウトライン等の構成がかなりいい加減になり悲惨なものができあがる.ちなみにWebに書く文章はもっといい加減なのでメモ書きとして扱われたし.
さて,これを踏まえて院に進んで他大学出身の方々を見ていると
サーベイが十分できていない,下手をするとサーベイのしかたすらよくわかっていない.なので,主張が根拠のない「思いつき」レベルに聞こえることが多い.
アウトラインを決めずにひたすら思いつきで,「ページを埋める」という感覚で書き始める.
「英語ができないから英語論文が書けない」という苦手意識が強い.しかも「英語ができない」=「文法も単語も知らない」と思い込み,文章の組み立て方にあまり関係のないところを意識し過ぎている.
といったところが気になる.特に日本の理系の場合は,研究室の仕事を代々引き継ぐという感覚で研究が進められることも多いためか,サーベイに基づいて自分の主張を組み立てるというプロセスを踏めない学生が大多数なのかも知れない.分野にもよると思うが.私も卒論は(ボロボロながら)サーベイの上に自分の主張を固めて,という形で書いたのだがこの話を前ボスにした時に「卒論は研究室の仕事の手伝い程度でやるのが普通だろう,信じられない」と反応されたことがある.
さらに文章の書き方についても,その手のマニュアルは一応よく読まれるものの重要なノウハウのほとんどが研究室内で代々口伝されているように思える.その分野のならわしのようなものもあるかも知れないが,多くは研究室の人間,特にボスの趣味が強く反映されるように思える.これはインタフェースに関する集団の意思決定プロセスに似たようなところがあって,要するにCooperの言葉を真似れば「ゴムの読者」から論文の批判がなされることが問題なのかも知れない.都合のいい読者像(大概自分自身)から「こうした方が読みやすい」と突っ込むだけの状況,というケースが多いのではないか.論文の読者ともなればだいたい「査読者」「同じ分野のそこそこの研究者」「学生」などとペルソナが決まってくるので,特に集団で考える場合はそういった読者像を描いた上で論文の批判をした方がよいと思う.そしてそのような視点での批判は明文化しておくようにすればこの手の問題は少しは改善されるように思える.
この辺のプロセスをうまくやりくりするシステムはできないかな,と.
コメント多謝です.Wikiの方にもう少し細かい話を書いたので.
私がAI方面の研究者を見ていて特に不満に思うところのひとつに,サーベイと主張の間の飛躍が大きい研究が多過ぎるというものがある.理論寄りの研究になるとまた事情は変わると思うが(フォローし切れていない),応用についてはおおよそ「プログラムをこねくり回していたら何か面白そうなものができました」という話しか伝わらないことが多い.これは日本の大御所の先生にも当てはまるし,海外の研究者にも当てはまる.ほかの分野でも似たようなものかも知れないが.
こういう時によく現実世界へのグラウンディングという用語が使われるが,どうもこの用語からは現実世界に無理矢理摺り合わせている印象を強く受けるので私は気に入らない.やはり現実世界の観察を根気よくやった上でソリューションを打ち出すことが何より重要だと思うが,自分にその根気があるのかと問われると厳しいところだ.
研究室内向けWikiをPukiWikiで立てる.以前すずかけ台方面で使おうと思っていたWikiの設定を使い回して終わる.
Wikiのスタイルシートの調整に初めてFirefoxのWeb Developerを使ってみる.これは激しく便利.この手の作業がすべてWebブラウザで完結するというのが実に楽だ.ひとまず skin/pukiwiki.skin.ja.php をtDiaryテーマに摺り合わせて,適当なテーマ(今回はredgrid,サイドバー対応なもので)を選んだ上でPukiWikiのデフォルトのCSSで食い違いのあるところを別のCSSファイルに書き出して対応する.
自分のサイトもWikiに移行すべきものは移行せねば.
どうもリストの中身が締まりのないものになっている気がしたので昨日の内容も研究室Wikiの内容も dl を使って書き直す.いつもこの通りに書ければよいのだが,往々にしてデスマーチに自ら身を投じる羽目になるのが痛い.まずはprocrastinationをどう対処するかが問題である.
さて,よくよく考えてみるとこのような論文の書き方のプロセスとExtreme Programmingの考え方には共通項が見える.そういえば学部時代の英語のライティングの授業には学生ペア同士の論文のレビューがほぼ毎回のようにあった*1し(さすがに菓子は出なかったが),まず主張をはっきりさせようという発想はテストファーストの考え方に通じる.新たに自説をサポートする有力な文献が見つかったり,有益なアドヴァイスをどこかで得たりなどしたらリファクタリングも比較的容易に行える,などなど.ちょっとこれは比較対照表のようなものを仕立ててみると面白いかも知れない.
*1 そんな大事な場面で私はしょっちゅう課題をすっぽかして怒鳴られたり授業に出ずにひきこもったりどこぞへ外出していたりしたので落ちこぼれていったわけだ.あんなルールはちょっと勉強すれば誰でも覚えられる.実践できるかどうかはまた別の話.
An experiment in micropublishing(via 奥村先生のいろいろ)にあったKnuthが「数学者は本業そっちのけでTeXいじりに時間を使い過ぎ」と愚痴をこぼしたエピソードを知って,平林さんのExcel=時間泥棒説を思い出した.いずれも生産性につながらない無駄な計算機とのインタラクションで時間をつぶしてしまっている,という指摘と読めるわけだが,そう簡単にこの無駄な時間をばっさり落とせるかというと大概のケースではそうはいかないであろう.別のソフトウェアを無理矢理使ったり,既存のソフトウェアのユーザビリティの向上を狙ったりしたところでそれほど生産性が上がるとは思えない.誤解しないで欲しいが,「既存のソフトウェアのユーザビリティの向上」そのものは一種の礼儀として必要である.しかし,そういった観点のユーザビリティの改善だけで無駄なインタラクションの解消に貢献できるか,と考えると疑問が残る.
要するに,「頼むから仕事してくれ」という下心をいかに見せずに無駄なインタラクションから無駄ではないインタラクションに変えられるか,という問題だと捉えられる.たとえば派手な装飾やらアニメーションやらはどうでもいいので,文書作成にしてもスライド作成にしても,「一緒に文章やプレゼンの構成を考えてくれる」ツールであって欲しいわけだ(昨日のExtreme Writingはそのヒントになるかと思ったのだが).こういったインタラクションの質の転換を徐々に行えればいいように思える.こういうツールをどう売り込むか,という問題も残るわけだが.
所用あってすずかけ台へ.すいません,例のお仕事は今週かけてでもやります.
人違いな尋ね人メール.同姓同名が多い名前ではよくある話である.
ようやく旧研究室のノートPCを引き渡す.CLIEも今日ようやく届いたので旧研究室のPalm m505からデータの移し替えをしなくては.Zaurusにしようかとも迷ったのだが.
今日英語プレゼンを聴いている時にふと思いついた.ある単語の使い方(たとえばある動詞について前置詞を後に置くか置かないか,置く場合は何が来るかなど)の検索やら,文章を読んでいる時に単語の意味を,できるだけ辞書を引かないでコンテクストだけで何とか理解するためのインタフェースに使えないかと思ったわけだ.ここで辞書を検索対象にするのはあえてNGにする.辞書は辞書で引けばよい.あくまでコーパスが検索対象であるというのがミソである.この手の検索手法については,古くは高林哲さんも修論でEmacsに実装しておられるし,Webベースだったら学部の同期が手がけたKiwiなどもある.RandomNote式であれば単語そのものにリンクが張られて一目でわかるし,単語の検索履歴が時系列で残って復習も楽だし,などとメリットも多いと思う.RandomNoteな検索はかなり応用範囲が広そう.
Palmを旧研究室のm505からCLIE TJ-25へと乗り換える.以前Visor PlatinumからPalm m505への乗り換えは結構スムーズにできた記憶があるが,今回ははまった.PalmOSのヴァージョンアップのせいか,CLIEの独自仕様のせいかはわからないが.Palmであれば自分で買う金があるならTungsten Cあたり欲しいと思うわけだが,そうもいかないので選択肢がこれくらいしかないのがしんどいところである.
すずかけ台の仕事にはなかなか手がつけられない.
明日のミーティングのネタに困る.明後日の某所ミーティングの準備をいまからするか.そのネタと研究室Wikiの話で乗り切ろう.そういえば先週dvipdfmxではまったので直さねば.
書評を書きたいが今日は時間がなさそうなのでパス.隔日更新で何とか続けたい.
山下清美.ウェブログの心理学.人工知能学会第6回セマンティックウェブとオントロジー研究会SIG-SWO-A401-03,2004.
HCIの研究者として最も気になるのは「最初からユーザ同士のコミュニケーションツールとしてWeb日記やWeblogを捉えてしまうことは果たして妥当なのか」という点である.以下に理由をいくつか挙げる.
質的データの分析が(私の知る限りでは)ない
確かにCMCを支えるメカニズムとして自己開示があることはほかの研究をみても妥当なところだと思われるが,ほかの要因についてどの程度考慮されているのかがわからなかった.たとえば「ほかに,Web日記を書く理由があればお答えください」といった自由記述の質問項目などがそもそもあったのか,質問項目があって回答があったとして,どの程度考慮されたのかが気になる.私だったらGumbrechtのようにインタビューから入ったり,参与観察(何をもって「参与」と呼ぶかがまた微妙だが)から入ることさえ考える.「ウェブログ度」についてもある程度は妥当かと思うが,あれでよいのかというともちろん疑問であるし,さすがにその点は認識されていると思う.
もちろん,何らかの形で予備調査的なものがあるならば是非とも知りたいところである.むしろそういった話を中心にされた方が分野の外の方々にも直感的に伝わるところがあると個人的には思うので.
コミュニケーションのチャネルとしてWeb日記やWeblogは制約が多過ぎる
山下先生のご発表で,ここ最近「備忘録」的にWeb日記を利用するユーザが増えている状況について大変驚かれていたのだが,私のようなWeb日記記述歴1年半の新参者で,かつHCIがバックグラウンドにあるような立場になると逆に「備忘録」的な使われ方はそうなるべくしてなったという印象が強い.一昔前のWeb日記サイトのようにリファラと一極集中型アンテナで他者のフィードバックを知った上で自分で反応を書く,というまどろっこしいインタフェースでは素朴に考えれば他者とのコミュニケーションは難しいように思える.また,当時でもレンタル掲示板やらチャットやらIMなどの代替のコミュニケーション手段はあったわけで,コミュニケーションとしてのWeb日記を語るならばやはりそのようなメディアとの比較も必要だったのでは,と考えられる(前述のGumbrechtはそのような比較を行っている).
ただ,当時の技術的なバックグラウンドやWebに対する期待などの時代背景も考慮に入れる必要がありそうだ.以下については根拠があまりないので間違いがあれば指摘されたいが,一昔前の状況を考えてみると
そもそもWebサイトを個人で持つこと自体,技術的な敷居がそれなりに高く,難しいことだった.
ISPの提供するWebスペースを利用するケースが多く,CGIの自由な利用が難しかった.
Web上でしか出会えない多数の誰かが自分の意見に強く同意してくれるかも知れない,という期待があったかも知れない.
といった背景があっただろう.これが現在の状況になると
Weblogホスティングサービスを使えば,比較的楽にWeb日記/Weblogを始められる.
レンタルサーバや自宅サーバといった,CGIなどを含めたより自由度の高いWebサーバ設定のできる環境が広がり始めた.独自ドメインの取得も比較的安価でできるようになった.
Webサイトをもつユーザが多くなったりWebブラウジングのスキルがユーザ全体として上がったりして,「自分みたいな人間がページを書いたところでリピーターが現れるようには思えない」という意識も出始めているかも知れない.
といった状況も現れているように思える.要するに,一昔前は技術的な制約と少数のユーザの中で目立つための情報発信という要因があってコミュニケーションのためのWeb日記が存在しえた可能性もあるが,多数のユーザに埋もれた中での情報発信になっていると割り切ってしまっていると考えられる現状では,Web日記/Weblogツールが提供するインタフェースから自然に誘発される備忘録的な使い方(後述)が主流になっているとも考えられるわけだ.この辺の考察は突っ込みどころが多いので,今後も調査が必要かも知れない.
自分のWeb日記やWeblogの読者は認識されにくい可能性が高い
ユーザとWeb日記ツール,ないしWeblogツールとのインタラクションでは,ツールの「向こう側の人」はなかなか認識されにくいと考えられる.HCI,特にSRCTの研究では実際の情報源が何であれ,目の前のコンピュータやソフトウェアが知覚される第一の情報源としてユーザに認識されることが実験で確かめられている(参考文献:簡単な解説,論文).実際,「他人の目の前でこれを書いていたらこんなことは書かないだろう」というような話を書いたWeb日記/Weblogも多い.私もしょっちゅうとんでもないことを書いてしまう.やはり,ユーザとWeb日記/Weblogツールとのインタラクションでは他者の目は意識しにくいのではないか.
この点についても山下先生にうかがったのだが,「そういう他者のフィードバックは書いていくうちに身につけるもの」という回答をいただいた.もちろん,他者を意識しにくいことはWeb日記/Weblogのメリットでもあるわけだが,意識した方がよい場面もあるはず.慎重な物書きが求められる場合も少なからずあるし,特に初心者にとってはWeb日記/Weblogに対する敷居をよくない意味で高めていることにもなっているであろう.こういった問題にインタフェースから予防的に介入できないか,というのがここ最近私が考えていることの1つである.
もうひとつ気になったのは,今回の調査対象がはてなダイアリーのユーザであったわけだが公開で日記を書いているユーザとプライベートモードで日記を書いているユーザとの区別をしているか,という点である.いくら自分の書いたコンテンツを読むであろう読者は想定しにくいとはいえ,公開で日記を書くユーザとプライベートな日記を書くユーザとでは内容への意識が変わってくると思われる.また,読者が特定されるような環境との比較(たとえばmixiの日記)もあると興味深い.
なお,たつをさんの要約なども併せて参考までに.
@inproceedings{yamashita:weblog,
author = "山下 清美",
yomi = "Kiyomi Yamashita",
title = "ウェブログの心理学",
booktitle = "人工知能学会第6回セマンティックウェブとオントロジー研究会資料",
year = 2004}
FlowerLoungeさんの興味深い考察に反応.
まず,
主に個人サイトが公開している、大多数にとってあまり有用でない情報が多すぎて、ウェブの利用者が有用な情報に到達するのが困難になってきているのだ。
膨大な量の情報の取り扱いに、情報の受け手が困惑するのであれば、送り手側での規制ではなく、受け手側でなんらかの制御を行うべきだ。
この問題意識が今回の議論の大前提である.これらについては私もほぼ同意である(ただ情報の制御を行うのは情報の受け手ではなく,まず第一にインタフェースの設計者であるべきだと思うが).しかし,私はこの原因と問題解決については違う見方をしている.情報の送り手が意識的であれ無意識的であれ妨げられている意思表明を促す方法の模索こそが必要なのではないか,というのが私の基本的な考えである.すべてではないにせよ,妨げられた意思表明にこそ有用な情報が存在するという見方をしているわけだ.
まず,Simonの認知能力の限界(もっとそれらしい用語を使うとbounded rationality,限定された合理性,限定合理性という訳語がある)をもとにWebブラウジングのナビゲーションの問題をとりあげている.これはSimonの理論に頼らずともユーザビリティの問題の楽観視ということでたびたび批判されていることでもある(以前にも書いた).Simonの認知能力の限界についてはまた後ほど.
いずれにせよ,Webからもペーパーメディアなどからもそれなりにバランスよく情報収集するに越したことはない.しかし,フィルタリングの問題の元記事にまず言及すると,なぜ 現状では「視野を広げる」という事では、雑誌・新聞等のペーバメディアの方がBlogやWebコンテンツよりも優れている部分が多い
のかについて決定的な根拠が示されていない.むしろペーパーメディアを動かしている新聞社や大手出版社の体質から考えると,情報が均質化しているのはむしろペーパーメディアではないかとさえ思う(これも以前書いた).元記事の元記事がおそらくアメリカの事情についてのものなので,メディアの形式の文化差は考慮した方がよいだろう.また,私個人の感覚からすれば,アンテナやRSSリーダはむしろ多様な情報の収集に一役買っている印象の方が強い.私は「興味はあるがなかなか勉強の機会がない」というページに対してもアンテナを張ることがあるので.要は使い方次第であろう.下手に他者とのインタラクションのチャネルを広げない限りは集団極性化の心配はそれほどしなくてよいと思う.しかし,どうやらこの手の研究ではSNSとの連係を強め,情報共有における他者とのインタラクションを強めようとしていそうなところが気がかりではある.
さて,私の話をここで引用されているが,ここで注意されたいのは私はひとりひとりが独自のコンテンツを配信することを意識するように,という努力目標を掲げたつもりではないということ.これを メンタルな解決法
に括られたのは個人的には不本意だが,私の書き方がまずかったし具体的なシステムの提案をしたわけでもなかったのでやむを得ないであろう.もちろん,先述のSimonの理論に照らし合わせれば皆が皆理性的に振る舞うことは現実的に考えられないが,あくまでインタフェースの問題として個々人が自発的に独自のコンテンツを配信するように促す方法を模索すべきではないかということが意図としてあるので,そこは改めて強調しておく.私としてはむしろ,個々人の自発的な独自のコンテンツ配信を促すことがむしろ あらゆる方向への言説の振り幅、余白を残しておくこと
につながるのではないか,ということである.別に強制するつもりはない.あくまで「できれば,お願い」という程度のものであるし,そこで態度を変える情報の送り手がそれなりに増えて,かつ燃え尽きない程度に独自のコンテンツ配信を行えれば少しは事態が好転するのではと期待している.これこそHCIにおける当面のチャレンジングな試みのひとつだと個人的には思っている.
情報の受け手によるエントリの評価についてであるが,受け手がフィードバックを送ることはそれなりに面倒であるということ,そしてここでもまた集団極性化の問題がついて回る可能性があることには注意が必要だろう.前者はひとまず入力を極力簡単なものにし,かつ評価作業のメリットをはっきりさせることがひとつの策,後者は人数の力で評価が動かないようなものにすることが必要といえる.
いずれにせよ,むしろ個人が好き勝手なことを言えることを保証することが個人のWebでの情報発信では必要なのではないのか.ただでさえほかのメディアでは個人の「生の声」はほかの人々に届きにくいのであるから.
たださんのRSSについての話を読んで,前から書かねばと思った話を蒸し返すことにした.
RSSリーダのようにコンテンツだけがデータとして情報の受け手にやってくると何がうれしいかといえば,ナビゲーションについて受け手の手元でコントロールがきくという点がひとつ挙げられると思う.このようなコンテンツ配信が普及すれば以前からの「HTML上でのメニューの位置」などというものは不毛な議論になる.link タグでもってサイトナビゲーションで対応するというのがHTML本来の流儀ではあるのだが,どれだけのブラウザが対応しているかと考えると不安なので,差し当たりナビゲーションのためのHTMLをラッパーとしてどこにメニューを配置した方がよいのか,という議論であったといままでの話を位置づけたいが駄目でしょうか? いずれにせよ,上の意味で不毛な議論というのは一理ある意見だと考えています.単に「左でも右でもどっちでもいいんじゃん?」という意見では何も考えたことにならないので.
そういうわけでRSSでコンテンツ配信+XSLTでデザインの調整という形式で情報が流れる時代が来るかも知れないが,ナビゲーションはユーザ主導にできるようにして欲しいと思う.
ふじさわさんの反応について.
情報を「どこへ」到達させようとしているのか,についてはまったくもって同意.特に付け足したいこともない.
情報を「なぜ」到達させようとしているのかについては人それぞれであろう.ただ,「このコンテンツを読んだ人々に◯◯を理解して欲しい」といった強いモチベーションの情報伝達のメディアとしてWebはそもそも向かないであろう,というのが個人的な考えとしてある.まあWebでなくても押しつけがましいメッセージはあまり好かれないだろう.他者に情報が渡って,うまい具合に他者によってその情報が加工されれば個人的にはそれに越したことはない.たとえ単にリンクを張られるだけでもそれ自身が価値あることだといまは考えている.
さて,最後の受け手がいかに成熟するか,などという見方についてだが,私の場合は視点が違っていて「情報の送り手と受け手の間にある情報流通の制約が情報のあり方を決める」と考えている.情報を送る間に何らかのフィルタがかかることは自明であろう.そのフィルタの1つはインタフェース(blogで言えば情報の送り手にとってはコメントやTrackBackなど,情報の受け手にとっては検索など,参考)であるし,このインタフェースから情報と送り手と受け手の間へいかに介入するかが今後の情報の扱われ方を大きく左右すると考えている.やはりインタフェース研究に対するモチベーションはこの辺にあるように思う.精神論でない情報と送り手と受け手の変化へ介入できる強力な手段の1つがインタフェースであろう.
某所でミーティングのため電車移動.今月はこの件をしっかり煮詰めたい.
某所から最寄駅への移動中に豪雨.バスの中にいる間に止んだので助かったが.
しばらくここには堅苦しい話は書きたくない.日々の記録にとどめよう……と言った先からまた堅苦しい話を書き出しそうなのが実にしんどいところだが.
たとえばリコメンデーションの事実(via たつをさん)などで指摘されているように推薦の精度の低さがリコメンデーションがうまくいかない理由として挙げられることは多い(もちろんユーザビリティなどへの配慮は大前提).だが,もうひとつ見過ごされている原因としてユーザと推薦システムとの社会的関係がうまく作れていないことが挙げられると思う.いきなり「こんな商品もおすすめです」などと言われても,ほとんど初対面の相手に言われると「この商品を買うならこんなのも買うだろ?」くらいの押しつけがましさが表れることもある.言葉遣いなどの要因もあるので,一概には言えないが.プッシュ型サービスが嫌われる原因もこの辺にあるのかも知れない.ユーザとシステム(推薦システムに限らず)の社会的関係というのは実は結構重要で,システムにいくらか穴があってもうまく関係が作れるとある種の愛嬌としてユーザに受け入れられる可能性すらある.ユーザとシステムの社会的関係のつくり方については以前一例をとりあげた.
コメントでご紹介のあったRemembrance Agentもプッシュ型で情報が推薦される点が気になった.少なくとも文書作成の場面ではオンデマンドの検索の方が使い勝手がよいと思う.書きたい内容がはっきりしている文書について他人に手取り足取り文書作成を手伝ってもらってしまうと,やはり個人のプライドが傷つくだろうし,ましてや下手な手伝いでは単なる足手まといにしかならない.「いつわからない点を誰か/何かに訊けばよいか」という判断については,ユーザにイニシアティヴを持たせた方がうまくいくことがほとんどだろう.
予告通り深澤直人氏の公開講義を聴きに行く.やや遅刻して場所に余裕がなかったためメモをCLIEでとっていたが,Graffiti2に慣れないせいでほとんどまともにメモがとれず.惜しいことをした.もちろん,話に引き込まれてうっかりメモを忘れたりしたこともあるが.手書きすればよかった.
それはそうと本題.プロダクトデザインという分野の本質にも強く関わると思うが,いかにデザイナとユーザの間の妥当な「まっすぐな」線を探るか,という議論が実に興味深かった.思い出せる限りの要点はこういったところだろうか:
ありそうでないものを作る
問題は環境の中にある
行為に相即するデザイン
少し遅れて感じる喜びをデザインする
などなど.こういった提案の中に,いかに「人と人工物をそれとなく引き合わせるか」「人と人工物とのインタラクションをいかに長続きさせるか」というノウハウが見事に現されている.
まだこの件について語りたいことは多いのだが,後日.
最近いろいろな人のIllustratorの使い方を見て感じたことを書いてみる.
その前に私の過去の話を.たぶん小学生くらいの頃だと思う.「一番幅の狭い直線って何だろう」ということを特に何のきっかけがあったわけでもなく考えていた時期があった.ひとまず,「色と色の境目なら幅がないな」と思いついたわけだ.のちのち,数学で「幅のない直線」という概念を知った時,このことを思い出したりもしていたのだが.Gibsonの生態学的視覚論をご存知の方であれば,この話から肌理と縁の関係を思い出すかも知れない.
この経験があるからかどうか知らないが,私はIllustratorでもFlashでも,まず面で絵を描く癖がある.円にしても長方形にしても,まず縁部分に線をつけないで面どうしを組み合わせて絵を構成する.単にその方がすっきりしているから,などと普段は思っているのだが,その「すっきり」感の根拠がわかってきた気がする.どうもデザインの経験のある人になると面の組み合わせを主体に構成しようとしている傾向が見えるし,逆にない人になると線の組み合わせを主体に構成しようとしている傾向が見えてしまうことに最近気がついた.私も一時期デザイン系の大学院に行こうなどと考えていた時期もあったにはあったし,いまも強い関心があるのだが特にその手の訓練を積んだ経験はないのでまったくもってなぜこう考えるのか不思議なのだが.
少し前の鈴木クニエさんのお話を読んだり,昨日の多摩美大のオープンキャンパスを見たり,平田オリザ氏の本を読んだりして考え直す.
やはりプレゼンテーションに対して台本を用意して,その台本通りに演じ切れるのが理想ではあるのだが,ではどのように台本を構成するのか,そもそも台本なんていちいち作る手間があるのかと考えると実に大変なことである.ここで台本を書く代わりに,諏訪先生の受け売りのような話になってしまうが,一度全体通しのプレゼンテーションをやった後に,その一部始終を可能な限り言語化してみるという作業を続けてみると自分の癖や問題点が見抜けてよいのかも知れない.自分の細かい手の動き,オーディエンスの反応などもひっくるめてすべて,である.いかに細かいところまで気がつくか,というところが重要なのかも知れない.
どうも仕事がはかどらない.関係者の皆様本当に申し訳ありません.
気がついたら終電がない.
しばらくこんな調子のことしか書きません.書けません.どうしても読まねばならぬ文献があるのでその書評を近日上げるつもりだが.
切込隊長BLOGより:
突き詰めれば、私も「一芸の人に一芸に集中できる環境を提供する一芸」しかないのかも知れない。しかし、大手家電屋と付き合っていて思うのは、組織はダラダラ過ごす人をリストラと称してすさまじい勢いでスポイルしていった結果、ダラダラしている人しか持ちえないクリエイティビティを喪失して、結局それを外注に出し高くついているというのもあったりする。消費者というのは、予想をはるかに超えてダラダラしている。真面目に働いている人は「これだけ高機能なら消費者は飛びつくだろう」と思って設計するが、ダラダラしている圧倒的な大多数は「面倒くさい」で終了するわけだ。このあたりの機微は、ダラダラしている人しか気づかない。
端的に言うなら ダラダラしている人
と 真面目に働いている人
とが沈みゆくタイタニックがどうこう言いながらも共存できればよいわけだが現実は難しい.私もしょっちゅう「アルコールが飲めないし飲まない」「彼女のひとりも作らない」「携帯電話も持たない」「家にテレビもない」「休日も研究室に入り浸る」そんな生活を続けたらそのうち人生破綻するぞ,と周りの人間に言われることは多いが私にとっては知ったことではない.いまは自分なりに質を確保した業績を自分なりの数だけ出すことに専念しているだけである.
そういう個人的な愚痴はともかくとして,問題はこういった二者の共存をどのように保証するかにある.まあ大抵の場合は目標の共有ができていないから実際のところどうでもいいような問題で衝突するに過ぎない気がするわけだが,では目標の共有はどうすればいいのかと言われると状況に依存するとしか言いようがない.たとえば私はひとまず研究者として何とか食えるようになることが当面の目標なので,食いつなぐための自分なりの質と量の業績を稼ぐことがやるべきことになる.ところが私の周りには「学生身分だと何かと得なことも多いし博士がとれれば自分の経歴に箔がつくから院に籍を置いているが,別に研究で食えなくても探せば職があるから研究で頑張る気はない」と思っている人間も実はそれなりにいて,そういう人間に限って上のような説教を垂れる.目標の共有がない以上は文句を言われる筋合いはない.それだけのことであるし,そうなると文句は黙って受け流すくらいしか策がない.しかし上の例ならば「それなりに売れ続ける製品を作る」などと目標を立てられるであろうから,残りのことにはよほど倫理にもとる行為なり態度なりがなければ目をつぶるくらいの器量が必要というごく当たり前だが実行の難しい結論が出てくる.後者のような解決できそうな問題に介入できるモノを作るのが私の当面の目標なわけだが.
気がつけば10日後にはお台場でポスター発表をしなくてはいけない状況なわけだ.それにしても時間がない.
ToDoが山のようにたまっているが1つ1つの仕事が重くて1日ではこなし切れないし並列処理も厳しい.何とかせねば.
上の話を別の視点から見ると,ダラダラしているユーザはダラダラしている製品を好む傾向があるのかも知れないとも読める.SRCT研究の中にユーザはユーザ自身に似た性格のモノを好む傾向があることを示唆したものは存在していて*1,「ダラダラ」の実体が何なのかということをもう少しはっきりさせる必要はあるものの重要な指摘であることには変わりはない.いずれにせよ,消費者というのは、予想をはるかに超えてダラダラしている
という見方はNormanの主張にも共通するところがあるしその通りだと思うのだが,問題はその「ダラダラ」が製品にどれだけ反映できるかという点であろう.解決策の基本はいつも書いていることだが上に書いた通り.
*1 参考文献:Moon, Y. & Nass, C. (1998). Are computers scapegoats? Attributions of responsibility in human-computer interaction. International Journal of Human-Computer Studies, Vol. 49, pp. 79--94.
津村さんのご意見.私も何かを伝えたいというモチベーションはないと書いたが,それは「読者の目を意識しない」という意図があったわけではないので.特に私も学生とはいえ肩書を背負って実名で情報発信をしている以上は読者の目はそれなりに意識しているつもりではあるし,発信した情報については責任をとる.その割には長文を書いたり「てにをは」がなってなかったりどぎつい表現があったりするが,それはすべて自分たち研究者が解決すべきインタフェースの問題である.また,ここは日々の記録という形態はとっているものの,私はどちらかといえば 「ネットを全体として使いやすいものに」「有益なものに」「自分はこういう目的を持っている」系
という立場である.ただ,自分の書いたものについて読み手にどのような解釈をして欲しいかといえば,それは読み手の自由でまったく構わないし,それ以上に自分の考えを押しつけることもできないししたくもない.むしろ発信される情報そのものがもつゆるやかな制約の中で,情報の解釈の余地があることこそがWebでの情報発信のメリットではないだろうか.
改めてブロガーに蔓延する「燃え尽き症候群」を読んでみると,燃え尽きの原因が読み手側の「教えて○○さん」という要求にあるような気がする.中には自意識過剰もほどほどにせい,という突っ込みをする輩もいるかも知れないが,「教えて○○さん」の声が数百人というオーダーになればそのような要求を無視できなくなるであろう.以前Weblog勉強会で「知識のある人がSNSに関わってくれないので困っている」という話があったが,原因はこのようなプレッシャーにあると個人的には思っている.この辺の詳しい議論は以前書いた通りで,特にビジネスとして無批判的に「SNSを導入すればうまくいく」と考えている場合は要注意であろう.まったり仲良くする場としてのSNSの存在価値は否定しないが,ビジネスとして利用するとこの手の問題に必ずといっていいほどぶつかると思う.
そう考えると,誰か手の空いている人が助けてくれたらそれでよい,という意味で「教えてえらい人」というフレーズはなかなか便利であろう.特定の「えらい人」に負荷をかけることもないし,質問する側も欲しい答えを時間をかけずに得られると期待できるので.もちろんそこまで簡単に互恵的な関係ができるほど世の中は甘くないのだが.
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_ 当該者(Nの方) [特に >サーベイが十分できていない のあたり、激しく耳が痛いです。。。 今後も議論の中で、いろいろ学んでいけたらと思..]